クリエイティビティを満たすためのサービスは作ることができるのか

「人間の行動動機がクリエイティビティでないものはすべて屑だ」とか言っていた人がいて、クリエイティビティな欲求を満たすサービスは作ることはできるのかなということを最近考えていた。結論から書くと「クリエイティビティな欲求を満たすサービスを作るのは現時点ではコストが高くて困難であり、今後だんだんと作りやすくなってくる」ということだ。


まず、サービスというのは人間の潜在的なニーズを探して、それにぶつけるというものだと思うのだけれど、そのニーズが大きければ大きいほどそのサービスの価値や影響力は大きい。そのニーズは自分が欲しいものだとわかりやすいんだけど、他人も欲しいものとかを考えると結構難しい気がする。それだったら、人間だれもがもっている欲求を基本として考えれば良い。


マズローの欲求階層というものがあって、下のピラミッド図で人間の欲求を理論化している。

上から順番に、

  1. 自己実現の欲求(self actualization)
  2. 承認の欲求(esteem)
  3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
  4. 安全の欲求(safety need)
  5. 生理的欲求(physiological need)

となっており、ピラミッドの下のものほど基本的な欲求になっていて、下のものが満たされないと上の欲求は湧いてこない。上の欲求を満たしている段階にいても下の欲求が満たされない状態になると下の欲求を満たすために行動をし始める、みたいな感じで、二番目のesteemを満たすまでは人間は不安感を覚えるらしい。


じゃあサービスを起こすときにどの欲求を狙っていけば良いのかって考えると、まず、physiological needとsafety needのような基本的な欲求っていうのは先進国であればほとんど満たされていて、そこを狙うのは難しい。下の二つが満たされているのならば、social needを狙っていけば良いのかとも思うのだが、実は今まさに世界で起こっているのが、このsocial needの奪い合いだと思う。古くは掲示板やブログだと考えているが、social needを満たすために近年のwebサービスは発展してきて、その勝者はfacebooktwitterに決まった。そして、今現在起こっているのがfacebooktwitterの食い残しの奪い合いで、それすらもfacebooktwitterの気分次第で摘み取られる。


このsocial needを狙っていくというのもありといえばありだと思う。自分の一日の行動を「朝起きる」から「夜寝る」まで思い返してみて、その中の行動でソーシャル化されてないものがあればそれをソーシャル化したサービスを作れば良い。ただ、「音楽を聴く」「ご飯を食べる」「ゲームをする」など、かなりの行動がソーシャル化されていて、今後それは加速するし、もうほとんどこの欲求は満たされていると思う。


人間のsocial needが満たされた社会ができつつあるということを考えると、僕はesteem(承認欲求)を満たすサービスを狙っていくべきではないのかと考えている。どうやれば承認欲求をくすぐることができるのか、それをとにかく考える段階にきているのだ。簡単に考えると「ユーザーになにかコンテンツを発信させて、それに反応したり評価したりする仕組みを作れば良い」と思うだろう。しかし、普通の人間っていうものは基本的に人に評価されるようなコンテンツの発信力を持っていないし、そのような発信力をもっている人はすでに別の形で承認欲求を満たして、次の段階に進んでいると思う。つまり、「なにもコンテンツをもっていない人たちからどうやってコンテンツを引き出すのか」ということが鍵となってくる。


一つの答えがinstagramだ。instagramは本当に素晴らしいサービスで、僕の撮ったクソみたいな写真でも人から評価されるれるまで美しく加工してくれて、他の人の反応を集めて僕の承認欲求を満たしてくれる。このように何も持っていない人たちのコンテンツ発信力を強化する形のサービスは本当に美しいと思うし、今後どんどん増えて欲しいと思う。Tumblrpinterestもコレ系だ。そして、狙っていくべきもう一つの答えが「ユーザーに個人情報の切り売りをさせる」である。究極の形は「前略プロフィール」だといえばわかりやすいと思うけど、何もコンテンツをもっていない中高生が承認欲求を満たすためにつかっている系のサービスを目指すのが良い。彼らは何も持っていないから、自分に起こったことをアメブロに書いたり、ニコ生でパンツをさらしたりする。つまり、個人情報を切り売りして承認欲求を満たそうとする。そこを狙う。


ここで冒頭の文に戻り、じゃあ、クリエイティビティを満たすようなサービスはどうなのと考える。クリエイティビティはその上のself actualization(自己実現欲求)に含まれ、これを満たすように狙っていくサービスっていうのはできないのかというと、別にできないこともない思う。ただ、esteem(承認欲求)を満たすサービスはsocial needを満たしているfacebooktwitterが基本として成り立ってきたので、今後増えていくという話だったのだが、self actualizationを求めるまでesteemを満たしている人たちがどれくらいいるのかというと、それは明らかに少なくなる。つまり、コストが高いのだ。その少人数をターゲットにして成功しているサービスを上げるのならばkiva、TED、Quora、Kickstarterなどになるのだろうか。これらはすべて素晴らしいサービスなのだけど、こういうを作るのはコストが高いと思う。エンジニアが思いついたままにα版をつくってリリースして、そのままうまく行けば伸ばしていくみたいな感じでは作れないと思うし、ロジックから攻める人たちがきちんと計画的に作って、すごい人脈をフル活用して、そこにお金をガンガン投入していって、少数のわかっている人間にのみ使われる、みたいな感じになりそうな気がする。このへんは想像でしかないのだけれど。


今後、esteemが満たされるサービスが増えてきたら次の段階として、クリエイティビティを満たすサービスもニーズが増えてきて、コストが下がるのかもしれないが、現時点では難しいのではないか。だから僕がいまおすすめなのは「クリエイティビティを満たすサービス」よりも「承認欲求を満たすサービスで、その結果としてクリエイティブっぽいものが残る」みたいな路線だと思う。

ファッションのスナップサイトとECの親和性について

ファッションxITな人たちが夜中に語っていたので勝手にまとめ


これを読んでいて少し考えたことをなぐり書きしておきたいのだけど、このtogetterに書かれていることにはかなり同意なのだが、それでもファッションスナップの投稿サイトとECというのは親和性が高いと考えている。このtogetterでは、ファッションスナップサイトを見ている人というのは服を買いたくて見ているわけではないから親和性が低いんだよって感じのことが一部に書かれていて、それはスナップサイトがECを載っけた場合の話だ。ECサイトがファッションスナップの投稿サイトを載っけた場合は話が全く違ってくる。


なぜならECサイトを訪れるユーザーは購入意欲があるからだ。ファッションスナップ写真に写っているアイテムをECサイトの商品と紐付けておく。そして、その写真は商品ページにも表示されるようにする。ECの商品というのは、その商品の情報量が多ければ多いほど売れるというのは基本であり、ユーザーが実際に使っている写真がそのページに現れるというのは、かなり強力なコンテンツとなる。ファッションというのは文脈性の高いものであるため、商品が具体的に使用されている写真を見ればユーザーはその商品が自分の文脈で理解できるため、購入意欲がわくだろう。また、他の関連商品とのリコメンドもより具体的に強力にすることができる。


ファッションスナップサイトをECと結びつけることができれば、ユーザーの投稿モチベーションはアフィリエイトやポイントシステムを使うことによって維持できるため、サイトにはコンテンツがまわり、コンテンツがまわってくるとEC目的でないユーザーも増えてきて、そこで承認欲求を満たすような仕組みを使って本来のファッションスナップサイトとして回すことができると思う。


写真というのは現実のものごとの文脈をデジタル化するのに非常に役に立ち、文脈性の高い物事をサービスにつかいたいときには写真を使うべきだと考えている。例えば上記のサービスはインテリアサイトにも応用できる。人々の写真にタグ付をさせれば、その人々が接点を持っているということをシステムに理解させることができる。facebookがやっていることだ。ファッションスナップ投稿サイトというのは、文脈性の高い「ファッション」というものをデジタル化し、それの具体例を大量に生産しているサイトである。僕はECとはとても相性が良いと考えている。

大学に4年間通っていたらいつの間にか360万円の借金を背負ってた

追記

現時点で書類には3%って書いてあるけれど、それは最大の場合で記されているだけで、実際は経済状況によって変わるらしいです。


奨学金ヤバい。学費と生活費のために2回生の頃から月々10万の奨学金をもらっていたのだけれど、それの返済書類をみて寒気がした。


おれの大学は私立でも高額の学費をとるところで、それは諦めているんだけど、その学費を払いつつ生活するには奨学金を貰わないとやっていけない。俺の場合が月々10万。そして溜まりに溜まって3年分360万円。何がやばいって、これが有利子であることで、年間3%の利子がつく。


返済書類には「月々2万でいいよ」みたいなこと書いているけど、360万の3%だと年間10万8000円の利子がつくので、毎月2万円を必死に払ってもたったの1万2000円しか返せてない。それで20年間延々と払わなければいけないらしい。利子だけで124万4592円。あほか。


月々15万くらい払っていって、利子をたくさん払う前に3年で返すっていうのが現実的な気がしているけれど、3年間毎月15万円もとられるというのもしゃくであるし、社会人になってまでなんで極貧生活をまたしなければいけないんだって感じになる。低金利で借りていると考えて、ある程度お金がまとまった所で使い道をきちんと考えるのがいいのかもしれない。


しかしこの奨学金、これから完済できる人がどのくらいいるのだろうか。俺も20年間安定収入がある自信なんて全くない。大学生のうち何割がこの大きな借金を「稼げるスキル」に変えて元を取るのだろうか。

理解と発想がどういうものであるか

最近追い込まれるように英語を勉強をしていて、大学生なのにまるで学生みたいになっている。勉強をしていくうちに「理解」とはなにか「発想」とはなにかみたいなことを再認識してきていて、あらためてここに書いておく。


結論から書くと、「理解とは物事を抽象化すること」で「発想とは物事を具象化すること」だ。抽象化という行為は「多くの具体例から共通部分を抜き出す」という行為である。それを逆にするのが具象化だ。


例えば「バナナ」「りんご」「もも」という具体例を抽象化すると、それぞれの共通部分である「木の上にみのるもの」となりそれを僕らは「果物」と呼んでいる。この抽象化する行為が「理解」であり、抽象化されたものが「知識」として僕らに残る。その「木の上にみのる果実」という知識に、抽象化される過程で捨象されたであろうなにか特有の要素を加えると「果物であるなにか」が生まれる。これが発想なのではないか。

多くの物語で共通して得られる経験を我々は「教訓」として理解し、すべての存在に対して共通して働いている法則を「物理学」として学んでいる。大事なことは、「別のものに応用して使える知識」というものが「理解」という行為によって抽象化されたものだけであるということだ。使える知識を増やすためには「理解」をしなければならない。


抽象化した知識をいきなり詰め込んでもそれは理解されない。具体例を複数あげて、それらを抽象化した後に「ああ、こういうことだったのか」と理解し、そこで初めて自分の知識になる。だから物事を教えたり説明したりするときは抽象概念ばかりを直接説明するだけでは足らず、具体例をあげることが大切だと考えている。説明が下手な人は自分の頭の中をそのまま伝えようとしているから、わかりにくい。学校教育では抽象的な本質を教科書が教えて、その具体例として問題をとくことで理解を助けている。
説明が下手な人はもっと抽象化パワーを身につけるべきだと思う


こういうことを理解していると、例えば英語の勉強をするときは単語や文法をそのまま覚えていくことだけでは使える知識にならないと気づく。僕はここ一ヶ月くらいで単語カードを1000枚くらい作ったのだが、それらには覚えたい知識と共に、それを実際に使っている英文をできるだけ多く書いている。


今の時代はgoogleによっていくらでも具体例が拾える時代になった。だからいくらでもいつでも「知識」が増やせる。googleを外部脳と考えれば、「知識」を増やす必要すらない。そこで問われているのが抽象化する能力、つまり理解力だ。これができるやつが頭が良いやつであって、一番必要とされている人間だ。しかし、googleに頼らず知識をため込んだ人間は、それらを独自に具体化することによって発想ができるようになる。それもまた必要とされていると思う。