理解と発想がどういうものであるか

最近追い込まれるように英語を勉強をしていて、大学生なのにまるで学生みたいになっている。勉強をしていくうちに「理解」とはなにか「発想」とはなにかみたいなことを再認識してきていて、あらためてここに書いておく。


結論から書くと、「理解とは物事を抽象化すること」で「発想とは物事を具象化すること」だ。抽象化という行為は「多くの具体例から共通部分を抜き出す」という行為である。それを逆にするのが具象化だ。


例えば「バナナ」「りんご」「もも」という具体例を抽象化すると、それぞれの共通部分である「木の上にみのるもの」となりそれを僕らは「果物」と呼んでいる。この抽象化する行為が「理解」であり、抽象化されたものが「知識」として僕らに残る。その「木の上にみのる果実」という知識に、抽象化される過程で捨象されたであろうなにか特有の要素を加えると「果物であるなにか」が生まれる。これが発想なのではないか。

多くの物語で共通して得られる経験を我々は「教訓」として理解し、すべての存在に対して共通して働いている法則を「物理学」として学んでいる。大事なことは、「別のものに応用して使える知識」というものが「理解」という行為によって抽象化されたものだけであるということだ。使える知識を増やすためには「理解」をしなければならない。


抽象化した知識をいきなり詰め込んでもそれは理解されない。具体例を複数あげて、それらを抽象化した後に「ああ、こういうことだったのか」と理解し、そこで初めて自分の知識になる。だから物事を教えたり説明したりするときは抽象概念ばかりを直接説明するだけでは足らず、具体例をあげることが大切だと考えている。説明が下手な人は自分の頭の中をそのまま伝えようとしているから、わかりにくい。学校教育では抽象的な本質を教科書が教えて、その具体例として問題をとくことで理解を助けている。
説明が下手な人はもっと抽象化パワーを身につけるべきだと思う


こういうことを理解していると、例えば英語の勉強をするときは単語や文法をそのまま覚えていくことだけでは使える知識にならないと気づく。僕はここ一ヶ月くらいで単語カードを1000枚くらい作ったのだが、それらには覚えたい知識と共に、それを実際に使っている英文をできるだけ多く書いている。


今の時代はgoogleによっていくらでも具体例が拾える時代になった。だからいくらでもいつでも「知識」が増やせる。googleを外部脳と考えれば、「知識」を増やす必要すらない。そこで問われているのが抽象化する能力、つまり理解力だ。これができるやつが頭が良いやつであって、一番必要とされている人間だ。しかし、googleに頼らず知識をため込んだ人間は、それらを独自に具体化することによって発想ができるようになる。それもまた必要とされていると思う。